昭和44年03月25日 夜の御理解
子供でも小さい間は親の言うことをよく聞きますけれども、段々大きくなって参りますと中々、親の言うことばかりは聞きません。この人ばかりはもう大きくなってくるに従ってから、たとえ・・・・?かと。もう・・なるに従ってから甘うなってしまうと言うふうに申しますけれどもね。なるほど言うことを聞かせきらんと言うことは、やはり親が考えなければならんことだと思いますけれども、あのよく御理解に、ね、
子供が例えば言うことを聞かんと言うなら、それはちょうど漬物が、臭くなって行きよると同じこと。重石が軽くなったことをまず子供じゃない。重石が軽うなったことを悟れというふうに教えられますよね。ですけれども、その重石がね、軽うなったとは思われませんですね、その力がなくなったとは思われません。けれどもそのそれだけ子供がね、成長してきた、それでけ子供が力がでけて来たと。
親のこう抑えでもこう、上さんはねのかそうと言うぐらいに力がでけて来たことなんですから、これはやはり一応はお礼を申し上げるべきだと思うですね。言うことを聞かんという、もう自分で自分の生き方の、ま、生き方と言うものを間違いはないと、ま、いわばその、親の目から見りゃ難しいものでしょうけれど、子供は子供なりにそういうことが考えられるようなおかげを頂いてきたと言うことなんですからね。
それでその、またあとで考えてみて、また親の年になった時に、子供達が反省することでしょうけれども、それではやはり遅いのですから、こりゃどうでもそこんところを親としては、もう子供じゃない、もう力も子供なりにでけて来たんだということをお礼申させてもらって、ならそれよりもっと一段と高い大きな力を親自身が頂いていくことに精進する以外にないようですね。
例えばその力を得た子供たちよりも、だからもっとそれを抑えられると言うか、その信心と言うか力と言うか、を頂いて行くこと以外にはない。子供がこう反発をしたり子供が、言うなら、ま、漬物が臭くなっていくと言うなら重石が軽くなっとるとじゃないけれども、私はもう一段重石が重くなると同時に、ね、子供は子供なりにそこまで成長のおかげを頂いておるということをね、
まずお礼を神様に申し上げるべきではなかろうか。そしてやはり親の目から見ては、年を取ったものの目から見れば、それではやはりあぶなつかしい、と思うならまあ一段、たとえば私が、いわゆる親が信心を進めて行く、力を一段頂いて行く以外にはないと思うですね。してみると、そのことが又、親子ともどもにおかげの元になるんですよね。
どうぞ。